2008年7月27日 日曜日

神の愛のうちを歩む人

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分22秒

エペソ人への手紙5章1-5節

 エペソ書は3章までが教理的部分で、4章からは実践的部分の冒頭で「召しにふさわしく歩みなさい。」(エペソ4:1)とあり、今日は「愛されている」(5:1)からこそ、「神にならう者」(5:1)として、私達が、どう愛のうちを歩むべきかを学びましょう。
エペソ4:1
4:1 さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。

エペソ5:1
5:1 ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。

第一に、神様がどんなに私達を愛しておられるか知っていますかです。知るとは、頭で知るのではなく、身をもって体験して知ることです。
5章1節で、「愛されている子どもらしく(口語訳では、「あなたがたは、神に愛されている子供として」)とあります。神様は、私達を本当に愛して下さっています。しかし、私達は神様から愛されているということを、どれくらい実感しているでしょうか。知っているようでも実は、あまり深く知らないのではないでしょうか。神様はいつも「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した」(エレミヤ31:3)と、私達に語っておられます。私達が、神様を忘れている時も、「神様なんていないや」と思っていても、いつも神様は私達を愛して下さっています。また、「キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、おささげになりました。」(5:2)とあるように、イエス様ご自身も私達のことをいつも気にかけ、愛して下さっておられるのです。
イザヤ43:4
43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。

エレミヤ31:3
31:3 主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。
エペソ5:2
5:2 また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。

 その愛は口先だけでなく、何の罪もないイエス様が、私達の罪の身代わりとなって十字架にかかって、命を投げ出して下さったのです。
 それは、私達が罪から自由になり、活き活きと生きるためです。神様は、愛するひとり子のイエス様を十字架に架けるほどに私達を愛して下さっているのです。私達一人一人は、理屈ぬきに、大きな愛で愛されているのです。その事を知って頂きたいのです。

第二に、神様に愛されている子どもとして歩むことです。
 「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)と約束していますように、キリスト者はみな、神の子どもです。ちなみにイエス様が、神の子と言われる場合、ヒュイオスという語が用いられ、血のつながった息子という意味で、本当の子ではない者が、神の子としての特権を与えられたのです。元来は罪の中に死んでいた者が、神の愛によって生かされ、永遠の命を与えられ、神の国を受け継ぐ者とされたのです。
 ですから、神の子らしく、神様を信頼し、その愛を十分に頂いて、謙遜に従がっていくことが、神様の子としての歩みです。

第三に、キリストを模範として歩むことです。
生まれたばかりの動物の赤ちゃんは、お母さんたちのやっている事を見習って、水を飲んだり、餌を取ったりして生き方を学びます。私達が見習う人は、誰でしょうか。それは、神様です。私達は神様に愛されている神の子どもですから、神の子どもとして、喜んで「神にならう者」(5:1)とされる時、神様に喜ばれる生き方が出来るのです。

といっても、神様は見えないお方なので、私達には、具体的にどうすべきかわかりません。それゆえ父なる神様は、ひとり子イエス様をこの世に遣わして下さり、このキリストの行動を具体的な模範として歩むよう示されたのです。
 キリストの生涯は、愛に貫かれ、罪人の友となり、貧しい人々を憐れみ、悪霊に捕らえられている人々を解放なされたのは、神がどのような人々をも愛されていることを明確に示すためでした。そして最後に主は、自発的に、罪のためのいけにえとなって死んで下さいました。このお方を模範とするならば、私たちも人々を愛し、その人のために喜んで犠牲を払う生き方をし、キリストにならう歩みをすることができます。
第四に、愛のうちを歩むとはどういうことかを2つ考えてみましょう。
その1、不品行を避け、言葉に注意することです。
パウロは、5章3,4節で「あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。」と具体的に指示しています。

 やみの世の特徴は、ゆがめられた本能の現れであり、性秩序の乱れがその代表的なものです。パウロがあげている「不品行(ポルネイア)」(5:3)は、「ポルノ」と同じ語から出ており、人の道からはずれた性交渉を指す言葉です。また「どんな汚れも、またむさぼり、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談」(5:3,4)は、ことごとく不純な性欲や肉の欲望から発するもので、そのような行為から遠ざかることはもちろん、「口にすることさえいけません、避けなさい。」と戒めています。そのような行為や会話は、「聖徒にふさわしく」(5:3)ないからです。こうした言動は、ただ単に自分を汚すだけでなく、徐々に自分を欲望の奴隷にしてしまい、ついにはそうした行為を正当化したりします。これは、「偶像礼拝者」(5:5)であり、真実な神の愛のうちを歩く者にとって、有害無益であり、「キリストと神との御国を相続することができません」(5:5)。
エペソ5:5
5:5 あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者――これが偶像礼拝者です。――こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。

その2、感謝をささげることです。
 逆に口にすることは、「感謝」(5:4)をささげることです。神の愛の計画を信じる者は、すべてに感謝できます。愛の神は万事を益にして下さり(ローマ8:28)、たとい迫害を受けることがあっても、主のなされることに間違いないと信じて、神の愛のうちを歩む者は、「私たちを愛してくださった方によって、すべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者」(ローマ8・37)となることができ、喜んで感謝をささげることができるのです。
ローマ8・37
8:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

私達は、無条件で理屈ぬきに、神様から本当に愛されている子どもであることを忘れないで下さい。神様に愛されていることを知り、神様にならって素晴らしい愛のうちを歩む人は、自分が神に愛されていることを知り、自分が愛されているように、隣人をも愛することができます。それを基礎・土台として、キリストを模範とし、聖い人になるために、神様は助け主として聖霊を私達に与えて下さいました。ですから、聖霊の助けを頂くと共に、神様から目を離さないで、感謝をもって愛のうちを歩む者とさせて頂きましょう。

2008年7月20日 日曜日

十字架上の第一の言葉

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分44秒

ルカの福音書23章32-34節
今日は、十字架とイエス様の最初の言葉を考えてみましょう。

第一に、イエス様は、十字架刑にされたと聖書に記されています。いったい十字架刑とは、どういう刑だったのでしょう。
 不思議なことに、聖書は十字架刑のことをあまり詳しく説明していません。それは当時、誰でも実際に見ているので、説明の必要がなかったのですが、現代の私達は、実際見ていませんので、詳しく知る必要があります。
この十字架刑は、古代のカルタゴという国で始まった死刑の方法です。これは生きたまま囚人の手と足に釘を打ちつけてぶら下げておくという、実に残忍な死刑の方法でした。急所を避けているので、囚人は、のたうち回って苦しみながら簡単に死ぬことができずに、何時間も苦しみ続けるのです。

 そして普通は、発狂して狂い死にしてもなお十字架からは降ろされず、鳥や野犬に食いちぎられ、腐敗し、白骨化するまでさらされていたと言われています。
 あまりにもそれが残酷であったために、当時の征服国であったローマの市民権を持っている者は、十字架につけてはいけないことになりました。異邦人で、しかも極悪な犯罪人、もしくはローマの皇帝に背いた政治犯だけを十字架につけることが許されていました。

 刑が決まると、囚人は執行するローマの兵隊たちに渡されます。そしてローマの兵隊たちは、自分の手に渡された死刑囚に対して、どんな残虐な行為をすることも許されていたのです。むしろ、そのように囚人を痛めつけておいてから十字架につけた方が、十字架上での苦しみの時間が長引かずに死ぬことができる、これは慈悲なのだという理屈をつけて、その囚人を傷つけ痛めつけることが習慣になっていたのでした。

 「ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた」(ルカ23:32-33)のです。

 イエス様は「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」(23:35)というののしりにも、何一つののしり返さず、ただ痛みに耐え、やがて、イエス様の口から出た第一の言葉が「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)。
 何か事件が起きた時に最初に発せられる言葉というのは、その人の本音・本質が出るものです。十字架につくまでにイエス様の心にあったことが、この時に、言葉として吹き出したのだと私は思います。
ルカ23:34,35
23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
23:35 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」

第二に、イエス様が十字架につけられた理由が二つありました。
1つ目の理由は、「神さまを『父』」と呼んだ」ということです。
 ヨハネの福音書5章で、38年間床についたままの人を癒した後、イエス様は「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」(ヨハネ5:17)と言われました。

 それを聞いた当時のユダヤ人たちは、イエス様に対して「ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられた」(ヨハネ5:18)と言い、その時からイエス様を殺そうとするようになったと聖書に記しています。            
ヨハネ5:17,18
5:17 イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」
5:18 このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。

神様を父と呼ぶ習慣は、ユダヤ教にはありません。ユダヤ人にとって、神は恐るべきお方であり、「父」と呼ばず、「聖なる方」「全能の神」「万軍の神」と呼んでいました。神様を「天のお父さま」と呼ぶということは、まさに宗教界の大革命だったのです。

イエス様が十字架につけられた二つ目の理由は「赦し」です。赦したがために、イエスは十字架にかけられました。
 ゆるしには2つあります。その1、「許可」などで使われる「許」という字で、条件さえそろえば、誰でも許せることが、「許」の「ゆるし」の意味です。

 その2、「恩赦」「大赦」「特赦」などで使われる「赦」という字で、絶対に赦してはならないもので、法律で絶対にゆるせない犯人を、特別に赦す時だけ使う言葉なのです。
 アウグスティヌスは、「罪」の定義をいくつか挙げていますが、その中の一つに、「罪とは、赦してはならないもののことである」と定義しています。赦していいものは、罪ではないのです。本当の罪とは、絶対に赦してはならないものなのですから、罪を赦すと大問題になります。罪をゆるせば世の中に混乱が起こり、法律は役立たなくなり、無法の社会になるでしょう。ゆるせないから「罪」なのです。

 「ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります。」(ヨハネ19:7)。
 神の正義を代表するユダヤの律法の社会では、絶対に罪の赦しはありませんでした。旧約聖書の中では絶対に罪は赦されません。赦すためには、痛ましい手続きがなければ、人の罪を赦すことはできません。
ヨハネ19:7
19:7 ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります。」

第三に、父なる神の痛ましい手続きです。
 神様はひとり子イエス様をこの世に遣わし、十字架につけるという痛ましい手続きによって人の罪を赦しました。その手続きを経なければ、神でさえ罪を赦すことはできないのです。もし罪を赦したら、神様は、正義ではなく不義の神様になってしまいます。
ですから、神様は無条件で罪を赦すということはなさいませんでした。罪は必ず裁かれなければなりません。呪われなければならないのです。それをイエスは赦したのでした。
イエス様の赦しは、仕方なしに、というものではありません。どんな罪人でも、姦淫の現行犯の女性でも、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:11)と言うように、出会いがしらに赦しています。
ヨハネ8:11
8:11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」〕

 イエス様は、罪状を調べてから赦したわけではありません。明らかな罪人を一言で、会った瞬間にお赦しになっています。
 それは、当時の律法の中に生きていたユダヤの宗教家にとっては耐えられないことでした。なぜなら、自分の良心を満足させるために厳しい律法生活をしているのに、それでも自分達は、救われているか、赦されているかわからないというのに、イエス様は石で打ち殺されても文句を言えないような人に、いとも簡単に「あなたの罪は赦されました。」(ルカ5:20)と言われているのです。「何の権威があっておまえは人の罪を赦すのか」と言いたくなるのは彼らにとっては当然のことでした。               
 そのためにイエス様は裁かれたのです。イエス様が罪を赦すことをされなかったら、裁かれる必要はなかったのです。
ルカ5:20 彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。

 人は、自分が加害者である時には、その罪の痛みがわかりません。被害者になって初めて、罪というものがどんなに恐ろしいものであるかがわかってくるのです。
 私達は、神様に対して加害者です。罪に気づかず平気で暮らしています。聖なる神様の御心をどれだけ傷つけているかわかりません。その加害者である私達のために、イエス様は十字架にかかられたのです。                                          

第四に、イエス様による罪の赦しとは、どのような赦しでしょうか。
 イエス様は十字架の上で、私達の罪の身代わりとなって死んで下さったゆえに、神は、私達の罪を赦して下さることができるのです。
 その1、イザヤ1:18に「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」とあるように、どんな罪も、すべて赦されます。イエス様の十字架上の血の代価は、制限も、限界もないのです。
イザヤ1:18
1:18 「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。

 その2、イザヤ44:22に「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。」とあるように、十字架の愛ゆえに、人を完全に赦すことができる赦しです。
イザヤ44:22
44:22 わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」

その3、エレミヤ31:34に「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」とあるように、永遠の赦しです。カール・ヒルティは「眠られぬ夜のために」という本の中で、「赦すとは忘れ去ることだ」と言っています。赦すと言っても忘れていないのでは、赦したことにはなりません。赦しとは、すべてを忘れることです。
エレミヤ31:34
31:34 そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。――主の御告げ。――わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」

人の罪を赦すということは、実に難しいことです。あきらめることはできても、赦すことはできません。自分が正しければ正しいほど、赦すことができません。神様は、痛ましい手続きを経ることによって人の罪を赦そうとされました。それが十字架の出来事であり、十字架は、私達の罪の赦しの保証であり、その土台なのです。

 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)。この祈りは、彼らばかりでなく、神を神として敬わず、自己中心に生きてきた私達のためでもあります。また、その人を本当に愛し、赦していなければできません。それを成したイエス様は、ただの人ではありませんでした。そのお方を私達は心に迎え入れて歩む時、人を愛し、完全に赦すことができるのです。イエス様の「愛に根ざし、愛に基礎を置いて」(エペソ3:17)歩ませて頂きましょう。
エペソ3:17
3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、

2008年7月15日 火曜日

2008年7月中旬

Filed under: メールマガジン — 牧師 @ 21時23分30秒

同じ親から生まれても、ぜんぜん違う性格だったり、すごく不思議です。
こんなにも一人一人を違って創造された神様ってすごいと思いませんか。
そして、神の作品は、誰が一番とか、良い悪いではなくて、みんな「特別」なのです。
私達は、その「特別」な子供達を神様からお預かりしているのです。
子供には、持って生まれた性格があります。
「性」とは、生まれながら持っているもので、
「格」とは、生まれてから後に、環境・周りの人の言葉で造られていく部分で、後天的なものです。
この2つが合わさって性格と言います。
それらは、まことの神様によって成長させて下さるのです。
今子育て中の人もいると思いますが、聖書は子育ての基本を教えています。
あなたも聖書の真理に基づいて子育てしてみてはいかがでしょうか。
お祈り申し上げます。
「しかし、成長させたのは神です。」
(新約聖書コリント人への手紙第一3章6節)

2008年7月13日 日曜日

愛の実を結ばせる枝

Filed under: 礼拝メッセージ — 牧師 @ 10時30分30秒

ヨハネの福音書15章1-11節
            
 今日は、父なる神、子なる神、聖霊なる神の三位一体の神との密接な交わりを通して「愛の実を結ばせる」秘訣について考えてみましょう。

第一は、私達を育てる神様の愛です。
 この個所で、父なる神は「農夫」(15:1)にたとえられています。農夫がぶどうの木を育てるのは、豊かな実を結ばせるためです。だから、「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」(15:2)。父なる神が無駄な枝や葉をとりのぞかれるのは、実を結ばせるという明確な目的があるからです。
ヨハネ15:1,2
15:1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
15:2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。

 私達の生涯にも様々な苦しみがあり、神の愛を疑いたくなるような時もありますが、それは「もっと多く実を結ぶため」です。もし、神以外のものを神以上に大切にしているなら、神はそれを取り除かれます。私達を心から愛しておられるから、時には厳しいことをなされるのです。

第二は、御子イエスの愛です。
 イエス様がぶどうの木であるなら、私たちキリスト者は「枝」(15:5)です。「枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません」(15:4)。重要なのは、枝は木があってこそ存在できるという事実です。主は、「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(15:5)。そして、私たちが主につながることも必要ですが、それより前に、主が私たちを愛して、私たちにつながっておられるのです。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選」(15:16)んで下さったゆえ、たとい私たちが主から離れることがあっても、主は私達から離れることは決してありません。
 だから主は「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」(15:9)と。御子イエス様の愛こそ、枝が実を結ぶための秘訣であり、イエス様につながってこそ、求めるものが与えられ(15:7)、豊かな実を結ぶことが出来るのです。
ヨハネ15:4,5,9
15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。

第三は、農夫である神様は、私達をイエス様につながらせて、どのような実を豊かに結ばせようとしておられるのでしょうか。
 それは、愛の実です。イエス様につながる時に、私達の中に聖霊が流れ込んできます。聖霊は、イエス様と私達との生きた関係へと導いて下さいます。聖霊の助けがなければ、イエス様につながれて愛されている事も、自分がイエス様につながっていることも分かりません。
 イエス様につながることによって、聖霊は私達を豊かな実を結ぶ者へと導いて下さるのです。 

第四は、神様が私達の人生に豊かな実を結ばせ、永遠の命を維持させるために、15:2で記されていますように、2つのことをなさいます。
その1は、「取り除き」です(15:2)。
 取り除くとは、ギリシャ語で「持ち上げる」という意味で、実を結ばない枝を再び養分を与え、肥やしを与え、日が当たるように邪魔な障害を除き、風通しをよくし、成長させるために、全力で育て上げて下さいます。「もうだめだ、切ってしまおう」(ルカ13:6-9)と言われても、神様は忍耐をもって、なお成長させるために力を注いで下さいます。
ルカ13:6-9
13:6 イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。
13:7 そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』
13:8 番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。
13:9 もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」

 「成長させてくださる神なのです」(1コリント3:7)から、私達がしなければならないことは、成長のために、神のみことばを受け入れる悔いた、砕かれた心をもって歩むことが必要です。そうでないと、さまたげとなります。成熟と豊かな実は、神とその人自身の砕かれた心です。
1コリント3:7
3:7 それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。

その2は、「刈り込み」です(15:2)。
 刈り込むとは、ギリシャ語で「きよめる」という意味があります。つまり、刈り込みをし、きよめて下さいます。

 まず、私達がキリストにつながることによって、人生の価値観を変革して下さいます。それによって、何が本当に必要でよいことなのかを教えて下さいます。

 次に、人生の優先順位を建て直して下さいます。第一にしなければならないことを第一にするようにさせて下さるのです。

 そして、悪い習慣に手を入れ、成長を妨げている悪い癖や人間関係に刈り込みをして下さいます。

 しかし、神は決して刈り込みを第一にはなさいません。まず、しつかり枝を持ち上げ、枝が幹であるキリストにしっかり結びつき、そこに新しいいのちが豊かに流れるようにし、強くしてから刈り込みをして下さるのです。

なぜ刈り込みをするのでしょうか。それは神に似た、神にふさわしい、きよい器にするために不必要なものを取り除き、刈り込みをして、自分自身と、人に対して多くの実を結ばせるためです。実とは、自分自身に対する御霊の実(ガラテヤ5:22,23)であり、人に対する悔い改めと救霊の実です。それが家庭や社会で実を結び、真の意味で平和を築くことができるのです。
ガラテヤ5:22,23
5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

第五は、8節以下から、実生活で証しするために、愛にとどまることによって、神に栄光を帰する生き方の4要素です。

その1は、「多くの実を結」ぶことです(15:8)。
聖書が記している人生の実とは「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、自制」(ガラテヤ5:22,23)です。
しかし、この人生の実は、人の努力で出来るものではありません。幹である神にしっかりつながり、十分にいのちの水を吸い上げている時、自然に結果としてあらわれるものです。「愛、喜び、平安」の根源であられる御方にしっかりとつながって多くの実を結ぶ者となりたいものです。

その2は、私達がキリストの「愛の中にとどま」ることです(ヨハネ15:9)。
人生で、どのような状況の中にあっても、その人が愛にあふれ、喜びにおどり、心に平安が与えられ、人生を輝いて生きているなら、人々は、その人の背後に神がおられることを知り、神に栄光を帰することができるでしょう。

その3、イエス・キリストの「戒めを守」ることです(ヨハネ15:10,12)。
その戒めとは、「愛すること」です。イエス様に単純に従い、単純に愛することです。それは決して重荷とはなりません(マタイ11:29-30)。なぜなら、背負いがいのあるすばらしい重荷だからです。そして実は、イエス様が横にいて全責任を負って下さるからです。また、重荷は、その人にとって、すべて益として下さるからです。私達を、いのちをかけて愛して下さったイエスと一緒に愛のくびきを負う-これは無上の光栄ではないでしょうか。
ヨハネ15:12
15:12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

マタイ11:29-30
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

その4、「喜びが満たされる」(15:11)ことです。
イエス様は、作りものではなく、本物の人生の喜びを私達に与えるために、この世に来られ、教え、死んで下さいました。そしてよみがえって、あなたの心に住んで下さるのです。
 本物の喜びとは、1つ目は、心に注ぎ込まれます。自分の努力によって作り出せるものではありません。キリストの愛を信じ、受け入れ、キリストを通して神と結びつく時、キリストのうちにある喜びが注ぎ込まれて、喜びとなるのです。これは、人に左右されたり、社会・環境・状況に左右されることなく、キリストにあって、常に喜ぶことができます(ピリピ4;4-7)。
                                                                                                                                             
2つ目は、泡のように消えていくものではなく、その人のうちにとどまり、心がそれで満たされる喜びです(ヨハネ15:11)。

3つ目は、十字架と復活の体験が、心の喜びとなるのです。私達もどのような状況の中にあっても、たえず心からあふれる喜びを人々に証したいものです。

 イエス様につながるとは、罪深い私の罪のために十字架で死んで下さるほどに愛して下さったイエス様を信じ、そのイエス様の愛にとどまることです。まず、自分が愛されていることを知り、その愛を日々、感謝して生活する時、聖霊を通して豊かな愛の実を結ばせて下さいます。 まず、私達が愛の実を結び、神様の愛をあらわす者とさせて頂きましょう。
ヨハネ15:8-11
15:8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。
15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。
15:10 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。
15:11 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。

ピリピ4;4-7
4:4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
4:5 あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。
4:6 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
4:7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

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